意訳翻訳の危険性
こんにちは。
そろそろ「ライ麦畑でつかまえて」を読み始め、主人公からモロに影響を受けそうなお年頃の息子がいるプロデューサーの古津です。
今回は“意訳翻訳”について無理矢理ですがつらつらと。
我が家は僕も妻もその両親たちも比較的よく本を読むこともあり、それぞれの本棚にはそれなりの種類と数量を揃えた本達が所狭しと並んでいます。
その為、二人の愚息も自然と読書好きになる環境は整っているように思います。
特に長男は小さな頃から家族で行楽地に出かけた際のほんの少しの待ち時間などでも、持参した本を読み始めるようなやつです。(それはそれでどうなんだよ?と思いますが…)
そうなってくると、かつての僕がそうであったように彼らが僕の本棚から興味本位で無作為に本を抜き出しパラパラとページをめくるのも時間の問題かと思われます。
ので、人格形成に影響を及ぼしそうな作品(某三島)や「お前らにはまだ早い系作品」は妻の所有物諸々と一緒にクローゼットの奥底にそっと仕舞われております。
何なんでしょうね?あの衝動は。僕もそうでしたが、なんとなく親父の本棚って気になってしまい目を盗んではチラチラと漁ってしまうんですよね。どれどれ的に。
で、そこで出会った作品や作家が自分的バイブルになって後の趣味趣向に大きな影響を与えていくという。
と、まぁそういった読書好き家系の愚息あるあるを鑑みると、いざ本棚を漁られたときに少しでも彼らに響くもの、本として優れたものを並べておきたい!
という親父の見栄も芽生えてきたりします。
↑この辺を並べておけば、対ティーンエイジャーとして無難of無難な気がしていますが…
では本として優れたものとは何か?それは内容もさることながら、言い回しや単語表現がいかに“日常的”であるかだと個人的には思います。
表現が日常的であればある程、自己投影し易く、その世界に没頭し易いからです。
(※ファンタジー系は除く)
これが海外作品になれば尚更で、翻訳者の言葉の表現によって物語の印象や解釈が大きく変わってきてしまうので、僕は本選びの際は「叙情的な表現をいかに一般的な単語で訳しているか&極端な意訳的表現が頻発しないか」で良し悪しを判断しています。
ちょうど冒頭でも触れた「ライ麦畑でつかまえて」は村上春樹さんが翻訳された事で改めて注目を集め、読み直された方も多いかも知れませんが(もう10年以上前ですが)…個人的にはこれはサリンジャーの作品ではなく村上春樹さんの作品になってしまっていたので、僕の本棚には並べていません。。。
注)決して村上春樹作品が苦手な訳ではありません むしろまぁまぁ読んでいます
↑15歳の息子にはこの辺りの村上春樹作品が響きそうな気がします
僕がかつて親父の本棚から拝借した「ライ麦畑でつかまえて」は野崎孝さん翻訳の1984年発行のもので、日常会話を日常会話として身近な単語とありふれた言い回しで訳されている非常に自己投影しやすい、オリジナルのニュアンスや空気感を大切にした翻訳がされた一冊でした。僕より上の世代の方々にはこちらをバイブルとされている方は沢山いらっしゃると思います。
僕はこういった「オリジナルの情報を極力意訳を挟まず、身近で慣れ親しんだ表現を使い、正しいニュアンスと世界観で伝える」ことこそ優れたものの条件であると考えています。
これは何も書籍の翻訳に限った話ではなく、一般社会での生活でも同様です。
伝えなくてはならないオリジナルの情報を「正しいニュアンスと世界観」で伝えられなかった為により生じる様々な問題ってありますよね。
例えばかつて僕が関わった広告案件でもクライアントの希望(オリジナル情報)をディレクターが上手いこと翻訳し、デザイナーへ伝えることが出来なかった為に本来のニュアンスからかけ離れたデザイン案があがってきてしまい、そのまま提出してしまえばクライアントの大不評を買う事になりかねなかった事案がありました。
こちらはデザイン自体のクオリティーはとても高いレベルにあったことも相待って今でも忘れられない残念な出来事となってしまいました。
これはディレクターの「(自分が思う)面白いものを作りたい!」というエゴ(意訳)が生んだトラブルで、本来は第一に考えなければならないクライアントの意向(オリジナル情報)を
強すぎる自己主張で蔑ろにしてしまった結果の出来事でした。
とまぁなんだか無理矢理な展開になってしましましたが、仕事も翻訳も「情報は正しく、正確に」を心がけなくてはどんなに素晴らしいアイデアや表現も、独りよがりのくだらないものに 落ちてしまうこともあるよぉという事です。
怖いですね…それではまた。
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